哀しみの忘れ方

【ふれあう/越水利江子画】
このところ、私はずっと、ある哀しみを抱えています。

その内容については、ここには書けませんが、それは、とても重い、もしかしたら、私自身が死ぬその時まで続く、逃れられない哀しみになってしまうかもしれません。
いっときの痛みや哀しみでなく、さかのぼれば二十年にもわたってしまう人生を否定せねばならないような、これから、老いて死ぬまで続くような、魂の哀しみをどうか背負わせないで……と願いつつ、かといって、そのために、自分のできることは見つからないのが、今の状態です。
言葉というものの無力感、問いかけることの寂寥感にさいなまれて、もう、自分から発信することはできないでいるからです。
そんな中で、哀しみに囚われないよう生きるのは至難のわざですが、方法はあるのです。それは、好きなことや、好きな仕事に夢中になること。
それだけが、終わりのない、収拾のつかない哀しみから、私を救い上げてくれるみたいです。
でも、一方で、そういう哀しみを抱えている人は、いっぱいいるのかもしれないとも感じます。たとえ、ひとときの悲しみであれ、生涯つづく哀しみであれ、痛みを感じ悲しみに沈んでいる時はどれも同じではないかと……。
人の悲しみより、自分の哀しみが重いと考えるから、人は死にたくなってしまうのです。
私の哀しみだけにとらわれず、私に哀しみを与えている人にも悲しみがあると思いやることもできます。そして、それは、世の中のみんなと同じなんだと考えれば、死にたくはなりません。
私の哀しみの忘れ方、それは、自分だけの哀しみにとらわれないこと。
そして、夢中で仕事をすること。
たった、その二つが、私を元気に生きさせてくれるのです。