『戦国の姫城主 井伊直虎』#角川つばさ文庫 ドラマを作るのと、歴史小説を書くということは違います。


史実を大切に描きつつ、基本視点を定めぶれないのが小説。多視点から描けるのがドラマですが、それも、やはり核は必要。立役を脇に埋めてはいけないのです。
『戦国の姫城主 井伊直虎』は、 昨年11月、ドラマの始まる前に出版されて後、好調売れ行きで、出版後、毎月のように増刷を繰り返し四ヶ月経った先日、4刷重版出来のお知らせがあり、大勢の方に読んで頂いてとても嬉しいです。
大河ドラマ #おんな城主直虎 も佳境に入ってきて楽しいです。
ただ、ドラマと小説では、テーマの据え方が違うのだな…と思います。その点が如実に表れているのが、寿桂尼を含む今川義元、氏真の描き方、さらに小野家の小野政次の描き方だと思いました。現在残っている資料を基に、もし、今川や小野家を主人公に描くとしたら、色んな描き方があります。ドラマでは、相当な悪者になってしまっている今川だって、戦国の一時代を築いた戦国武将です。狡猾なだけではなかったろうし、一作の主人公にもなり得ると思います。井伊家の伝承では、裏切者扱いである小野家についても、小野家なりの正義と真があったという描き方ができます。
けれど、枚数の決まった、ことに児童書では、主人公が井伊直虎であるという視点にぶれなく描かなければなりません。とすれば、ドラマでは、闇オチ前の素敵な小野政次が、井伊家の誇りである直政の父、直親を食っていたように思いますが、枚数シーンの限られた小説では、立役を脇に埋めてしまわないことです。
むろん、私は、歴史資料を大切にしつつ、人間政次をも大切に描きました。
裏切っただろうというような事象はあっても、ただの裏切者だとは描きたくなかったのです。歴史資料からすれば裏切者かもしれないけれど、その人なりに、実は、真のある愛すべき人物だったと、死に際して描いたことを、今でも良かったと思っています。
立役直親は食われないよう立てるけれど、脇もまた書き捨てない。つまり、そういうバランス感覚こそ、小説には必要なんです。ことに児童書には。
重要人物は人として観察し、ただの悪者や、ただの英雄にしないこと…なのかもしれません。