無視するべきか、いや、やっぱり怒っておこう

と、日記お休み中(仕事はもっか獅子奮迅ですが)なのに、怒っています。
というのは、以前から、児童書に向かって、あるいは児童書の作家に向かって「児童書だから物足りない」とか「児童書だからこんなもの」というような発言がネット発信されています。
そんなふうに、児童書全体を馬鹿にする風潮は、実際、大新聞社にもあって、日本児童文学者協会会長の那須正幹さんが「児童書への差別を撤廃させたい。成人小説は本の特集で掲載されるのに、児童書だけなぜ家庭欄なのか?」とおっしゃった一言に要約されています。
児童書は万人が読める文学、読み物です。だから、小難しい言葉はつかわず、物語もそれなりに配慮はされています。けれども、内包しているものは、成人小説などとなんら変わりません。(すべてが文学賞をとらないにしろ>というか、すべてが文学賞作品なら本好きは大きく減るのではないですか? 気軽に楽しめる一冊、気軽にすいすい読めるのに実はとても深い思いをそこから読みとれる一冊、そんな本たちが本好きを増やしていると思います)
というふうに、成人向き児童書問わず、ああ面白かった〜で終わる本もあれば、ズンと心に残る作品もあります。
しかし、それは、個人の現在の心のありようで変わることで、一人の心に残らなかったといって、みんなにそうではありません。一人に大好評だったといって、みんなが不満をもたないということはありません。こんなことは当たり前。
でも、そこに「児童書だから」という言葉がつくと、それは大間違いです。
「児童書だから物足りない」といつも感じるひとは、もうこどもの時にもっていた繊細な感性や柔軟な心を失ってしまっているのではありませんか。
「児童書だからこんなもの」と発言するひとは、「あなたの感性はそんなもの」だということです。児童書だからさらりと読めてしまったひとは、もう、さらりとしか読むことしかできない固まった大人になってしまったのかもしれません。
嘘だと思うなら、あなたたちがつまらないというその本が大好きだというこどもたちの意見を聞いてみればいいと思います。
こり固まった価値観の上に居座って、思い上がりで生きている大人のあなたとは違って、こどもや思春期の少年少女は揺れ動くゆえに、細やかな感性と心で生きているのです。
いえ、そういう心をもったまま、大人になった人もいます。
児童書はそんな人たちのかけがえのない分野なのです。
「児童書だから」と差別する凝り固まったあなたには理解できないだけなのです。
これら児童書で育ったこどもたちこそが、将来、大人小説の熱心な読者になり、毎日、新聞に目を通す読者にもなるのです。
心ある大人のみなさん、お兄さん、お姉さん、お父さん、お母さん、司書さん、書店さん、新聞記者さん、そして、本を愛するみなさん、これからは「児童書だから」という否定的発言を聞いたら、目にしたら、そのことを思い出してみて下さいまし。
私の個人的な意見にすぎないですけれどね。