作家のこころ

どの世界でも、有能なひとほど重い荷物をしょわされて、そのことに愚痴や文句もいわず、倒れるまで笑顔で働き立ち続けるものなのですね。
だから、「もうだめだ」となって倒れるときは、もう精も根も尽き果てているものなのかもしれないと思いました。
いえ、最近思ったことではなく、数年前にごく親しい大切な人がそうなったことがあります。
私はどうしていいかわからず、何をいってもしても、その人を傷つける気がして、ただ見守るしかありませんでした。
その時、決めたことは、ただ、その人が幸せに豊かに生きてゆかれるなら、それが私にとって辛いことであったとしてもかまわない、できることはなんでもしよう、ということでした。
その人に辛い思いをさせることが、どんなことより、私にとって辛いことだと思ったからです。
その人が辛ければ、私の辛さは二倍、いや数倍になります。
でも、私だけなら二分の一、いや、その人から幸せな気持ちを分けてもらえるから、おそらく三分の一くらいには縮まるはずです。それなら、その方がいいじゃないかと。
そのひとは、今はもうお元気になられました。
私に向けて下さる笑顔も瞳も明るく、幸せな輝きがもどってきたように思います。
そんなことを、ここ数日、思い出していました。
同じように、尊敬する作家さんが有能でありすぎるゆえに苦しみを抱えていらっしゃるのを目の当たりにしたからです。
そういう辛さを抱えているとき、人は他者からのどんな誉め言葉も刃にしかならないのだと、あらためて感じました。
あらゆる言葉は「とげ」があります。
その言葉をつかった人間には何の意図も悪気もないどころか、善意や敬意でつかったとしても、言葉そのものが「とげ」をもっている存在だから仕方ないのです。
たとえば「越水さんは器用だから何でも書けるんだよ」といわれた時、いった相手ではなく、言葉そのものの「とげ」を感じます。
それと同じに「頭がいい」とか、「何でもできてすごいねえ」という言葉にも、つかった人間が意図しない(意図している場合もあるが)とげが存在しているのです。
ひとは、ぎりぎりに追いつめられたとき、精も根も尽き果てたとき、そのとげに耐えられません。そうなった人間に手をさしのべることなどできないのです。できると考えるなら不遜です。
ただ、私自身が抱いている愛を尽くして、遠くから見守るしかないのです。
そのことを、私は数年前に学びました。
ひとは誰でも、自分自身の力で、ゆっくり戻ってくるもの。
いつでも、笑顔で迎える準備だけ怠らないでいればいいような気がしています。