いい目と悪い目

どんなにいい人でも、人間の中にはいい目と悪い目があるように思います。
いい心悪い心ではないです。そんなに人間は芯から悪意があるわけじゃないと思うのです。(ただし、一部には、愉快犯のような酷い人間がいますが、これは例外として)
私はいつも偏ってないかなあと見直してみるのは、心ではなく目です。どういうことかというと、たとえば友人がいて、その友人との関係を考えたとき、彼(彼女)とやや距離ができていたとします。その時に「彼(彼女)は距離を空けたいんだな。じゃ、私も同じくらいの距離をおこう」と考えるのは悪い目だと思うのです。
「距離はあいたり縮まったりするもの。私は変わらずいこう」と思うのがいい目だと、私は思ってます。
相手に合わせるというのは、実は「こうだと思いこんでいる自分の物差しに合わせているだけ」だから、間違っていることも多いのです。
私は作家ですから本を出版しています。いうなら、作家仲間はみなライバルであり、良き友でもあるのです。そのライバルであり良き友の本について、いい本だよ〜ってレビューや解説を書いたりするとき、もし、ほんのちょっとでも「私」というものが出てきたら、それがたとえ「いい意見だったね」と他人に誉められようとも、たいていは悪い目なんです、それ。
レビューや解説では、わたしは「私」は出てこなくていいと思っています。紹介する本、物語について「ぜひ読んでみたい」と読者が思ってくれるような情報を盛り込むこと、自分なりに見つけた物語の面白さを「なるほど〜」って納得してもらえる真実の情報として伝えること、それだけでいいんです。
本当に素晴らしいところを発見して伝えるだけですから、善意の嘘もつかないですみます。でも、それを勘違いしているひとのなんて多いことか。
ネット上の垂れ流しのような悪意のある書評は放っておいて、こと、児童書の解説だけを見ても、分析の全くない評論、自分の好みだけに終始する解説(いえ、個人的に大好き〜ってのはいいんです。そうではなく、自分の好みをまるで欠けてはならない唯一無二の価値みたいにして作品を斬るのは間違っていると思うのです)がけっこうあります。解説を評論として書くなら、ハッとする分析なくしてその価値はないと思うのですが。
いい目悪い目でいえば、そういう勘違いしている人は悪い心で書いているわけではなくて、悪い目をいい目だと思いこんでいるだけなんです。
その失敗は、日常生活でも、だれもがしてしまう可能性があります。
たとえば、「あの人には何もしてもらっていないのに、なんで私だけがこんなにしなくちゃいけないわけ?」とか、思ったらそれは悪い目です。私がしているのは、私がしたいからしただけ、いいことをしたと思っていい気持ちになっているのは私なんです。もしかしたら、相手にはちょっと迷惑だったかもしれない。そう考えて、相手に負担がかからないように気をつけようと思っていればいいだけなんです。
作家なら「あら、この本には五つ☆がついてるわ。私には何もついてないのに」と思うのは悪い目。「あ、こんないい本に☆数が少ないわ。じゃ、私が五つ☆をプレゼント〜」はいい目。私の本と、だれかの本は無関係なんです。良い本はすすんで推薦すればいいし、つまらなかったと思った本はスルーすればいいだけです。
でもね、たいていの場合、無償の愛はいつか伝わります。無償だからこそ、伝わりやすいといってもいいかもしれません。もし、伝わらなくても、その人が悪意に生きなかったことだけでとても素晴らしいのです。いつか神様が幸運を運んできてくださるはずです。
自分だけを押し通す人生に、なんの喜びがあるでしょうか。
人生に華を添えてくれるのは心ある他人です。人生に希望を与えてくれるのも心ある他人です。終生ひとりぼっちの人間に「ひとりじゃないよ」といってくれるのも心ある他人です。自分良ければすべて良しではないのです。他人良ければすべて良し。
そう思って生きて、ようやく、人は利己的な本能とのバランスが拮抗するのではないかと思います。
でも、悪い目をいい目だと思いこんで譲らない人、自分だけが正しいと思いこんでいる人、自分だけの幸せを追求する人(そういうひとを心ないひと、心を失ったひとと呼びます)には注意してください。
なぜなら、現代の哲人大森荘蔵さんはこういっています。
「心あるとは自分の心を他者にそそぐこと」と。
心ない人に近寄ると怪我をします。
ずっと一緒にいると人生を台無しにします。
そうでなければ、人生は安泰です。安心して他人のために善意を尽くしましょう。(むろん、できる範囲で)
他人とは世界のはじまりです。
世界とは自分自身でもあります。
な〜んだ、あのひとのためなんていって、結局は自分のためでもあったのです。