新選組取材IN京都

12月15日(土)に行き残していた京都の新選組関係の取材をしました。まずは鳥羽伏見の戦い跡。味方の裏切りで大きく崩れた幕府軍。その最後尾をまもった新選組が白兵戦を展開した淀競馬場付近、その英霊がまつられている千両松跡、伏見奉行所跡、鳥羽離宮跡、薩長軍の砲弾跡が残るという妙教寺などへ行ってきました。
胸を衝いたのは、千両松跡の様子でした。
道の際に、石碑だけで一杯になるような小さな盛り土。フェンスで囲った大きな駐車場はありましたが(これは、おそらく淀競馬場のための駐車場で5分とめるのも1000円かかってしまうので駐車場には車を停められず)、運転手を残して、私だけ車を降り、お参りをしました。
道路とフェンスに挟まれ、ほんの形ばかりという感じでおかれている石碑。
周りは殺伐としたがらんとした民家も少ない場所なのに、英霊に捧げられた土地は一跨ぎで超えられるような狭い一角だけで、正面は自動車の排気ガスにさらされているのです。
石碑の真ん前、道路側に錆びた車よけが設置されていました。
石碑文は胸を打つ内容だったけれど、明治維新からこの平成の世まで、英霊たちをこんなふうにあつかっている薩長土の勝ち組が築いた日本という国に、大きな失望を感じました。この場所近くで、新選組井上源三郎も最後尾をまもって戦死したはずです。源三郎の首と胴体は、この近辺の別々の場所に葬られているはずなのですが、胴体の方はここにあるかも知れません。今度は源さんたち英霊にお酒を持っていってあげようと思いました。
このあと、新選組壬生屯所と西本願寺屯所近くの島原へ向かいました。今もお茶屋として経営している輪違屋は外観だけ見て、かつて揚屋だった角屋へ。揚屋は、島原の太夫さんなどを呼んで宴会ができる、いわば料亭ですが、今は美術館とされていて、保存会の方々がいろいろ説明して下さいます。その建物の隅々まで贅を尽くされ艶冶なこと! しかも、そのデザインや意匠は、現代の感覚でいっても新しいのです。
そして、二階の青貝の間と、一階玄関付近には新選組がつけた刀傷がくっきりと!
一階松の間(ここだけは火事のため再建)は、新選組芹沢鴨が暗殺される寸前まで、大宴会で飲んでいたという場所です。この松の間に行かれたら、障子の桟にご注目下さい。二階やその他重要文化財になっている部屋の障子の桟と見くらべて見て下さい。その造りの粗いことに気づかれると思います。遠目には元通り復元されているのですが、いかんせん、贅を尽くした昔とは違い、多くの予算をつぎ込めなかったのでしょう。職人の腕もたりなかったのでしょう。やはり、全然違います。それを比べられるのも、角屋の建物全体が残されたからこそ。よくぞ、残してくれたと感謝したくなりました。
ところが、驚いたことに、すぐそばを山陰線が通っているため、実は角屋は取り壊しになる運命だったのだそうです。それで、視察に来たお役人に、ここは歴史的な建物であると説明して、西郷隆盛さんが行水したという盥を見せたところ、取り壊しを免れたそうです。これほどの建築物があるのに、簡単に取り壊すとして、いくら西郷さんとはいえ、ただの盥で重要であると決めるとは、何かまちがってませんか?と思いました。まず、建物の価値を認めるべきなのに。
その前に見た千両松のことを思い、政府や自治体役人の文化意識の低さ、先人の遺産軽視にあきれかえりました。
新選組という一つの集団を見つめるだけで見えてくる、日本という国、現代という時代の病巣があらわになってきます。文化の貧困。それが、現代日本の哀しい姿ではないでしょうか。