季節風、春の研究会は盛会でした

昨日は疲れて書けなかったので、春研のご報告です。
東京のど真ん中での「季節風 春の研究会」、会員には大震災の被災者もあり、さらに原発事故も収束せずのなか、とても盛会でした。
研究会のスピーカーは、あさのあつこ八束澄子越水利江子高橋秀雄(敬称略)でした。
課題本は、『火群(ほむら)のごとく』(あさのあつこ)、『おたまじゃくしの降る町で』(八束澄子)、『江 浅井三姉妹戦国を生きた姫たち』(越水利江子)、さらに『地をはう風のように』(高橋秀雄)の四冊でした。
本の内容などもちらほら含みつつ、大きな話題になったのは、書き手が本を書くことの思いや覚悟について、また、その表現方法、テーマの捉え方、短編と長編の違い、さらには、それぞれの作家が何を書きたいのか、あるいはこれだけは書きたくないのは何か…などの普通の講演会研究会ではほとんど話されないような深い濃い話が飛び交いました。
参加の皆さんがご満足なさったかどうかは定かではないのですが、すでに中堅の書き手である私にとっても面白い話が聞けて面白かったです。
参加者にも作家がぞろぞろいらして、ほとんど、スピーカーと参加者の隔てはなく、それも、季節風ならではの光景でした。
一つだけ、話し忘れたことをここで。
歴史小説あるいは伝記などを書くときには、史実のすき間をどう埋めるのか、という話の続きです。
小説ならいざ知らず、伝記は残存する史実に反することはできません。かといって、その人物の人生の隅から隅まで史実で残っているということはないので、そのすき間を埋めるのは作家の想像力という話をしました。
その想像力も、小説のように限定なしの自由な想像はできませんから、つまり、史実を読み込んで、その人物の性格、時代背景、人間関係などを組み合わせて、そこから推察する限定された想像力になります…というような話をしましたが、一番、肝心なことを付け加えたいです。
「これまで読んできた伝記のようではなく、すごくワクワクして面白かった!」といって下さった方々にぜひ知って頂きたくて。
1,伝記、歴史小説を書くときは、充分な下調べ、読み込みをして、そこから想像を働かせるのですが、でも、一番大切なのは、私の場合、勘です。右か左かと悩むより早く、こっちしかない!とひらめく勘を優先します。
2,伝記、小説、ノンフィクションといっても、実は、純粋なノンフィクションというのはないのです。人の手と心を通して創作されたものはすべて、書き手の意向が反映されているのです。
3,もっといえば、史実といわれる古文書にも、書き手の意向は反映されているのです。たとえば、秀吉の時代に書かれた『信長公記』には決して秀吉の悪口は書けなかったとか、徳川の時代には、秀吉につながる者としての豊臣秀頼淀殿(茶々)などは良くは書かれていないとか、宣教師であったフロイスの手記はキリスト教信仰、援助をした者が善人として書かれているとか…まあ、史実と呼ばれるものですら、解釈のしようで大きく変わる可能性があるのですから、今、私たちが書く物にノンフィクションはないと断言してもいいでしょう。
4,それでも、現代の第一線研究家たちが紐解いた史実を下敷きに、時代の息吹をどれだけきめ細やかに伝えることができるかが、各作家の勝負所です。私はその中で、登場する中心人物たちの心の動きをきめ細やかに伝えたいと思いました。ただ、史実を並べるだけでなく。時代は、その時代に生きた人々の心が創りだしたものですから。

とまあ、春研の続きでした。

春研こぼれ話ですが、面白かったのは、あさのさん、八束さん、私(越水)の三人ともが、ジーンズ姿だったこと。まったくの偶然で。
話してみたら、やはり、西の作家は「何かが起こった時に動きやすい」という理由で、ジーンズだったよう。
それぞれ忙しくて、この日はあまりゆっくり話せずでしたが、また五月の編集委員会でお目にかかれます。
まあ、それまでに、二本は仕事を終えなければなりませんが。
今日からまた、頑張ります。
火群のごとく おたまじゃくしの降る町で 江 浅井三姉妹 戦国を生きた姫たち (ポプラポケット文庫 伝記) 地をはう風のように (福音館創作童話シリーズ)