『まほろばの疾風』に思う

まほろばの疾風 (集英社文庫)

まほろばの疾風 (集英社文庫)

まほろばの疾風』(熊谷達也)をもうすぐ読み終える。アイヌの英雄アテルイの最期を読みたくなくて、ゆっくりしか読めない。
物語中、アテルイが大和の暮らしに慣れていき、やがて、かつては強く感じていた「切られる木の痛み」を感じなくなっていく件があったが、その痛みを、私は、子どもの頃から、人並み以上に感じるらしい。
かつて、若い母親だった時、住んでいた地域にあった樹齢百年以上の松並木が伐採され、駐車場が造られた。強く反対したが、願いは、公団には伝わらなかった。
やがて、業者によって、毎年、アオバズクが子育てをしていたうろのある松を含め、すべてが一日で切り倒された。
松枯れの流行るなか、生き残っていた貴重な松林だった。
松並木がチェーンソーで切り倒され、捨てるために切り刻まれたのを目にした時、私はその場で動けなくなった。切り刻まれた木々の発する叫びのような強い匂い、無残に飛び散る木屑……その瞬間は、痛みを感じるなんて言葉では、とても言い表せない。
屋敷を建てるために切り倒されるわけでもなく、じゃまだからと切り刻まれて、ただ殺されてゆく命の死を前に、息が詰まり、胸が苦しくてうずくまってしまいそうだった。
あれが、アテルイのいう「切られる木の痛みを感じる」ということだと思う。
痛みを感じるとは、同情なんかではない、切られた木と同じ心になって苦しむことなのだ。
原発事故も同じだ。
福島の人々の痛みを自分のものとする日本人ばかりなら、再稼動なんて言い出せるはずもない。
かつて、アイヌの文化を奪った大和の人間は、愚かにも原発を50基も造った。だが、大和にだって、切られる木の痛みを自分のものとする人間はいる。もし、山河を命を、これほどまでに苦しめる原発を封じる事ができたら、それだけは、アイヌと大和が共に行った素晴らしい歴史の1ページになる。
大地への愛にあふれたアテルイよ、どうか見守って。