どこまで歩くどこまで行ける

物書き稼業二十一年目になって、ふと振り返ってみたエッセイに、こんな一文がありました。
私のデビュー前後はといいますと、私のデビュー前年92年(93年度)には、今では著名な湯本香樹実さんが『夏の庭』で児童文学者協会新人賞を受賞されています。
デビューからマイペースで良い仕事を重ねられている梨木香歩さんは、やはり、94年(95年度)児童文学者協会新人賞を受けられた一年後輩です(最近はお隣の県に住んでいながらお目にかかる機会がありませんが)。この時、香月日輪さんも同時に新人賞をお受けになっています。
私はその間の93年(授賞式は94年度)に、『半分のふるさと』のイ・サンクムさんとご一緒に新人賞を頂きました。ところが、児童文学者協会の記念事業で発刊された『戦後児童文学の50年』で紹介された協会賞新人賞受賞作のうち、私の『風のラヴソング』だけが掲載されませんでした。もちろん故意ではなく、明らかに単なる校正ミスです。でも、この時、私は感じました。 「単なるミス」というのは、ミスが起こる背景があるのだと。つまり、明らかに協会史に残っている受賞作品、受賞者一覧があるにかかわらず、私の作品、私の名が落ちていることに誰も気づかなかったという現実です。
『戦後児童文学の50年』が発刊された当時、むろん私だけは気づきましたが、その事はどこへもいいませんでした。 確かその頃、私は関西の新聞紙面にいろいろ書いていましたので、そこで『戦後児童文学の50年』も紙面に紹介させて頂いたと思います。その時も本が売れるようにと配慮しましたが、個人的なそのことについては協会の藤田のぼるさんにもお知らせしなかったと思います。
初めて、協会関係のひとにそれを伝えたのは、確か2000年になってからだと思います。木暮正夫先生に、「昔こんなことがあってあの時はショックでした。でも、そのおかげで頑張れています」という伝え方をしたと思います。ですから気を悪くしたとか、そういうことではないのです。
ミスが起こる背景。それは、首都において、私という書き手の存在が、協会の誰からも認知されていなかったということです。協会史から消えても、誰にも気づかれない存在になっていたということです。
『戦後児童文学の50年』は96年の発行ですから、94年の協会新人賞受賞式からまだ2年、95年芸術選奨受賞式からは1年あまりしかたっていないにかかわらずです。 当時は、そのショックが一番大きかったのです。
でもこのことは、私の力不足が招いたことだと思っています。 同じ関西の作家である梨木さんも香月さんの名も落ちることなく、韓国に住まわれているイ・サンクムさんの作品も名もしっかり記載されているのです。
あれは、ただ、私の作家としての存在感の薄さが招いたことだと、今も思っています。
けれども現在は、広く児童文学界を見つめれば、少し違う感慨を持っています。 首都においては、地方の作家は名前を覚えてもらうだけでも、大変な努力を要します。たとえ、同じだけの力量があっても、首都の作家に比べて、地方の作家は仕事も露出度も圧倒的に不利です。そして、その不公平に気づくのは、やはり地方の作家であって、決して首都の作家ではないのです。そういう現実をしっかり踏まえつつ、地方の作家は首都作家の三倍は頑張らねばなりません。グチや苦情をいうのでなく、三倍頑張ればいいのです。 私は『戦後児童文学の50年』から、それを学びました。
この一文を書いたのは、物書き稼業十年目でした。
この時、私は「三倍、頑張ります」と宣言しています。
どこまで歩けるか、どこまで行けるか。
あれから、さらに十一年たった今、確かに三倍ぐらいは頑張ってきたように思います。正直、書くだけでなく、女としても母としても生きていく上だけでも、この二十年は三倍頑張らねばならない環境であったとも思います。むろん、自己点にすぎませんが。
今、この二十一年を振り返れば、人生の一つの峠は越えたな…と思います。でも、行く手には、まだまだ、幾つもの峠は続くのです。
今の願いは、いつか、心の安住の地に行く着くことありますように…という願いです。
あるのか、ないのか…幻かもしれませんが、生きている限り頑張り続けるしかなさそうです。