読んで下さってありがとう〜

長年、物書きをやっていると、世間には、ほんとに、本好きの素晴らしい方が多いと思います。
人生を楽しむために読書をなさって、そこから得た喜びや感動や、ふとした疑問などを綴って下さる方々、それらのレビューからは、作家も元気を貰ったり、時には勉強になったりして、ほんとにありがたいと思います。
ただ、その中でほんのわずかなのですが、全く見当違いであったり、最初から作家や作品をけなすためだけに書いていらっしゃるのかしら?と思うようなレビューに、一年に一度ぐらいは出会います。
今回の私の新刊にも、へたりこんでしまうような感想を一つだけ見つけてしまいました。まあ、それはいいのです。
そんなのは見なければいいとおっしゃる作家さんもいらっしゃるし、実際、すべての人に受け入れられる物語などないのですから、気にしないのが一番かもしれません。
ことに、最初からけなすつもりで書かれたレビューなどは「ああ、そういう人もいるよね」と素通りするのが一番なのですが、一番気になるのが見当違いのレビューです。

たとえば、ずいぶん昔の話ですが、作家が苦心して現実のいじめを描いたとします(ここでは、具体的なタイトルや作者は書きません)。
ある少女がクラス中から苛め抜かれて死さえ考える中で、たった一人、普通に接してくれる少年に出逢い、癒され、かすかな希望を見出す物語でした。
あくまでも、子ども目線で書かれたこの物語は、多くの子どもたちの心に刻まれたようでした。
その本を、「きれいごと。道徳的」と断じた読者さんがいらっしゃいました。たったお一人ですけれど。
その本については、真実いじめにあった少女と作者が実際に会ってお話を聞き、いじめの最中に彼女の書いた日記ともいえそうな資料をもとに、書かれたものでした。当時、作家自身にもいじめにあった体験がありました。
そういう体験を通して書かれた物語を「きれいごと。道徳的」と断じられた意味が、その作家にはわかりませんでした。
いえ、いじめには救いがないんだ!と思ってらっしゃるのはご自由だし、実際、救いがなくて、殺されたり自殺してしまった子たちもいます。
モデルとなった少女も、普通に接してくれ、味方になってくれる先生や友達がないなければ、どうなっていたかわかりません。
けれど、救いがなかったその子たちだって、「もし、こういう事があれば救えたんじゃないか…」と、人は考えるものだし、その希望を書くのが児童文学なのです。
「きれいごと、道徳的」は、その児童文学者たちが一番嫌う表現であり、教育機関のように、子どもを指導する方針で書かれたものは児童文学とはいいません。子どもが自分自身の心で感じ取り、自分自身の頭で考えて、光を見出してくれるように書かれたものが児童文学なのです。
そのかすかな希望さえ書いてはいけないのなら、成人文学はともかく、児童文学は成り立ちません。
もし、面と向かって、本物の児童文学者に、「きれいごと、道徳的!」といえば、喧嘩を売っているようなものです。
…とまあ、今後の児童文学作品のためにも、これだけは書いておきたいと思います。
けれど、どうけなされても、どう断じられても、その方はその本を読んで下さったのです。その方の貴重な時間をつかって、その本を読んで下さった。それだけで、「ありがとうございます〜」と頭を下げるべきなのは、作家自身です。「わたしはそうは思わない」と伝えつつも、「でも、読んで下さってありがとう〜」と、心でお礼を忘れないようにしたいです。