沖田総司さんに会いにゆく

6月17日沖田総司
私が沖田総司さんを知ったのは、確か、小学高学年の頃だったと思います。
新選組血風録』『燃えよ剣』といった司馬遼太郎作品が連続ドラマ化されたのをリアルタイムで知っているわけではありません。再放送や再々放送などで、夏休みの午前中に見たのです。こどもを全く意識せずつくられたそれら新選組の血と剣と友情の物語は、こどもだった、しかも少女だった私の胸を強く打ちました。それは、とてもとても激しいものでした。私はたった一人(鍵っ子だった)、夏休みの午前中の月から金までの毎日、新選組に没頭し、恋したように心躍らせ、まるで自分が切り裂かれるような痛みに耐え、愛した隊士たちの敗北に、死に、日々号泣したのでした。
それらは、やがて伝説になってゆく名作ドラマでありました。
その後、私は原作を読み、新選組の実録を集めました。といってもこどもの小遣いでできることはたかがしれています。それでも、当時も今も新選組といえばまず第一に数えられる新人物往来社の高価な本を何冊も手に入れたのですからすごいです。そして、それは一時の熱ではありませんでした。放送が終わっても、世間のブームが去っても(その頃がテレビドラマによる新選組の第一ブームでした。第二ブームのNHK新選組!まで、数十年を経ることになります)、私の中の新選組は消え去りませんでした。いよいよ熱く発酵していたといってもいいと思います。
十代で飛び込んだ世界が撮影所でした。
そこには憧れの土方を演じた栗塚旭さんがいらっしゃいました。沖田を演じた島田順司さんも。島田さんは今は地味な役柄が多いですが、あの頃、爆発的な人気を博した沖田総司でした。珍しく美男子ではない沖田でした。でも、どんな美男より魅力的な総司だったのです。それは、あの頃の人気が証明しています。
ともかく、私の中の新選組が、私を撮影所へ引きつけたのだと思います。ですから、私の新選組ファン度は大方の人には負けません。ほとんどこれまでの人生のすべてをかけてファンだったのですから。
そして、長い年月が過ぎて、私は作家になりました。
作家になった私に、大先輩の那須正幹大兄貴がこうおっしゃったのです。
「あんた、大人の読み物も書いてみんさい。京都に住んどるんじゃから、新選組なんか書いたらどう?」と。その時、ハッとしました。私はあまりに大ファンだったせいで、自分が新選組を書けるなんて思ったこともなかったのでした。
「私があの新選組を書く……?」那須さんの言葉、それは今から思えば神様の声でした。その直後から、私の中の新選組が雪崩をうって動き始めたのです。
そして、那須さんにいわれた翌春には、『月下花伝ー時の橋を駆けて』が出版されました。続編は、ただ今準備中です。さらに、もっとリアルな新選組も企画中です。
まるで、一杯一杯にたまった森の水が一気に渓流となり、川へ海へなだれ込むような勢いで私は新選組にのめりこみました。
少女の頃、願って果たせなかったすべてを今、私は果たそうと思っています。日野への取材、墓参は、少女の私が夢にまで見た願いでした。大人になってからは貧乏生活、さまざまな責任を果たすのが先で自分の夢は後回しでした。そんな私にとって、このたびの取材は、取材でありながらただの取材でなく、少女の頃へのタイムスリップであり、恋の道行きであり、積年の願いが叶う夢の旅でした。
さて、そんな旅の最終日。
沖田総司さんのお墓は東京都内の専称寺にあるのです。そして、墓参がかなうのは一年にたった一度、新人物往来社の大出さんの人徳にお頼りしての総司忌の数時間だけなのです。日野から東京へ向かう私は遅刻をしないように一時間程度の余裕を見て日野を出発しました。ホテルの人にたずねて、どのぐらいかかるかも聞いた上でのことです。しかし、不安はありました。大出さんから頂いた案内には住所も地図もないのです。ただ「最寄りの駅、○線△駅から徒歩○分、××のうら」と書いてあるのみ。しかも、お寺には決して電話をしてはいけないのです。
もし、ひとりでも電話をすると、来年から総司忌はできなくなってしまうというほど、お寺側は新選組ファンを迷惑に思っていらっしゃるようでした。おそらく、ブームの時に礼儀知らずなファンが多かったのでしょう。京都の光縁寺(山南さんたちのお墓があります)でも、ファンが大切な資料を盗んでいったとか、日野でも、八坂神社の天然理心流奉納額に添えた木刀を盗んでいった人がいるとか、それはそれはひどい話が沢山あるのです。ですから、お寺側が怒ってらしても仕方がないのです。
そんなわけで、最寄りの駅で降りて、まず駅員さんに聞きました。親切な駅員さんは、長い時間をかけて地図を探して位置を教えてくださりどの出口から出ればいいかを教えて下さいました。その通りに行きました。ですが、東京の道というのは三叉路になっているわ、横断歩道はないわで、きょろきょろしている間に方向感覚がくるってきました。仕方なく、誰かに聞こうと思いました。そして、聞いたひとの数、五人! 
つまり、新選組ファンには有名な専称寺も、近くの方はほとんどご存じないのです。最初の男性は旅行者で、二人目の方は機械を手に、人の数を数えていらっしゃるお兄さん(お兄さん、大変な時にすみません。でもお兄さんは迷惑だったろうに、目は必死に人を追いながらご親切に知っていることは教えて下さいました)。その先をお兄さんに聞くのはしのびなく、つぎは若い女性に聞きました。女性はおそらく、あっちだという方角を教えて下さいました。私はその方向へ突っ走りました。旅行最後の日なので荷物をゴロゴロころがしながら必死です。だって、うろうろしているうちに余裕の一時間は過ぎ去っていました。10分前だったのです。
でも、しばらく行くと不安になりました。それで、今度は二人連れのガードマンさんにお聞きしました。若い方の方が「さあ、知りませんね」といわれて、途方にくれた時、年上のおそらく40代ぐらいのガードマンさんが「おい。地図を調べてやれよ。持ってるだろ。冷たいこというんじゃないよ。親切にしてあげろ」といってくださったのです。それで、地図を調べて頂きました。方向は間違っていないもうすぐそこだとわかりました。私はお二人のガードマンさん(ことに年上の)に心からお礼を言って、また走りました。
行く手にお巡りさんが立っていらっしゃいました。
専称寺はどこですかっ」もう叫んでます。時間が過ぎていたのです。すると、お巡りさんが「そこ。人が集まってるところ」と教えて下さいました。ありました!専称寺です。つまり、お巡りさんは専称寺の警備に来ておられたのです。
数十人の人の中に、新人物往来社の大出さんのお顔が見えました。遅刻しましたけれど間に合いました。大出さんが「遠くから来たから荷物を預かってあげて」と寺門で受付をしていた人に頼んで下さいました。ゴロゴロをころがして、墓参はできませんから。
その日、専称寺でも出会いがあり、再会があり、素晴らしい収穫がありました。でも、それは作品でないと語れません。
ただ一つ、沖田総司さんのお墓は哀しいくらい可愛いお墓でした。まるで墓そのものが人格を持っているようなお墓なのです。小さいというような意味だけではないのです。拝んだら涙が出るのではないかと、少女の頃は思っていました。でも、あふれ出たのは涙ではなく、幼子を見るような愛しさでした。
ああ、まだいらっしゃる。総司さんはまだここにいらっしゃると思いました。少なくとも、総司さんの澄み切った気のようなものは、まだそこに漂っていました。そうなのです。澄んでいるのです、そこは、とても……。
「総司さん。やっと来ました」と心の中で声をかけました。「あなたを書かせて頂きます。あなたが生きて戦った意味を、その誠を、私なりに一生懸命書かせて頂きます。いい作品にして、新選組の皆さんに喜んでもらえるよう頑張ります」そんなことを誓ったと思います。
その日の午後は講演、夜は親睦会でした。この一日にお出会いした作家さんは、釣洋一さん、山村竜也さん(NHK新選組!時代考証をされた作家さん)、伊東成郎さん、結喜しはやさん。いずれも新選組関係の著書で著名な作家さんです。それに、何より嬉しかったのは総司さんのご子孫、総司さんの姉ミツさんの直系のご子孫沖田整司さんにお目にかかれたこと。土方さんのご子孫土方麻美さんや、壬生の新選組屯所跡前川邸の田野さんに再会できたこと。新選組の研究家の方々、剣士の方々などにもお会いできたことも。そして、伊東さんの講演の後、大出さんが私をご紹介下さり、多くの方が『月下花伝』を読むといって下さったことも嬉しいことでした。
この旅は、新選組の英霊に招かれて行ったのだと、今ははっきり思います。新選組のご子孫の方はどの方も素敵な方でした。そして、どの方も、かつての新選組の姿を彷彿とさせる雰囲気をお持ちでした。近藤勇さんが、土方歳三さんが、井上源三郎さんが、沖田総司さんが、私の中で生き生きとした表情を持ち始めています。
お墓のお写真は一枚も撮りませんでした。私は研究者ではないので資料写真の必要はないし、お墓は観光地ではありませんから。
私は、ただ近藤さんに、土方さんに、井上さんに、沖田さんに、こういいました。
「ただいま。長い旅から帰ってきました。これからは、また一緒です」と。