井上源三郎ゆかりの地

新選組の源さんの首が埋められた場所へお参りしてから、いろいろなことがありました。まだご子孫の井上さんのところでも公開されていないようなので、その場所や内容はここには書けませんが、そのうちに、いろいろご報告できると思います。新選組の故郷、日野のご子孫や研究者の方々とお話しできる機会も多くなりそうで嬉しいです。
それにしても、研究分野というのは、ほんとに大変だなあとしみじみ思うこの頃です。作家は研究者の方々の血と汗の結晶によって、いい作品を生み出すことができるのですから、私にとっては研究者の方々というのは神様にちかいような存在です。
でも、その世界はその世界で、学問としての追究、研鑽ばかりでないどろどろしたものもあって、これは、作家の世界も同じですね。だからこそ、そういうものから距離をおいて、研究や執筆に心を尽くされている方は後光が射して見えます。
作家は作品に必ずその人格が現れてしまうのですが、研究書もまたある程度読み込んでみると宝石とまがい物があるような気がします。内容というより、人格が著書に現れることは研究書であっても同じのようです。
ものを書くというのは怖いことです。怖いとわかって書かずにはいられない作家はある種中毒なのかもしれません。人生をかけて執筆中毒まっしぐらっというか。研究者の方はさらに人生のかけ方が半端ではないので、同病といっては失礼ですが、偉大な同病者とでもいいましょうか。こういう方々が、人為的にゆがめられた歴史を正道へ近づけ、新たな目を開いて下さるのですから、やっぱり神様みたいな方々です。
新選組や時代活劇などを書き出して良かったなあと思います。日々、新たな目をひらかれますから。
◇さて、それとは別に、私は今原稿の山に埋まってます。
いや、自分の原稿ではなく、児童文芸家協会創作コンクールの最終審査委員なので、最終候補作22編(多い! ふつう6,7作と聞いていたのに……今回は傑作が多いのか、はたまた、どんぐりの背比べなのか? まだ読み切ってないのでわかりません)。これを一週間で読まねばなりません。さらに、同人プレアデスの勉強会原稿が集まりつつあります。もしかして、全部で40作ほどになるのでは……!? 
わあ、自分の原稿はいつ書くんやろ??? 読むのは楽しみやけど、書けないのはつらい〜いや、午前中はどうあっても執筆しなければ。
◇それはそうと、この頃思うこと。
昔、未熟だったときほど(今も未熟ですが)、誰かが書いた物語に対して厳しかったなあと。
むろん、今は甘いのではなくて、作品づくりの意図や何を描こうとしているのかがわかるから、ないものねだりをしないのです。その作品に必要なものが足りない場合は指摘しますが、あれもこれもとデパートで買い物するような要求を一つの作品に対してしなくなりました。それが、一番ばかな読み方だと、今はよくわかっているので。
たとえば、児童書というものを理解していない大人の読み手さんの中には、幼年、低中学年作品に対して、(文学好きな人は)エンタメ作品に対して、(エンタメ好きなひとは)文学作品に対して、作品の質を見定めることなく、低い評価(☆評点とか)をなさいます。とんでもない! と、よく私は思います。
幼い子供が理解できる言葉、物語、枚数で、ひとつの世界を描きだすことの凄さ、難しさを、そういうひとたちは知らないのです。それは、残念なことに、作家志望の方にもいらっしゃるのです。
でも、そのひとの心は、作品に現れます(上でも書いたように)。
幼低中学年作品をばかにするようなひと、ばかにしないまでも、気づかず低い評価をしているひとの書くものは、大人が読めばそれなりに面白いのですが、こどもが読んでも楽しくない内容になってしまっているのです。
むろん大多数のこどもにうけるばかりがいい作品ではありません。少ないこどもが心の奥深くにいつまでも残している作品なら、それは名作です。
しかしまあ、そういう作品こそ、そのひとの内面が見事に現れてしまうのです。
作品を書くというのは、己を磨くことなんです。
自分の作品は他人の目で見直すこと。
他者の作品こそ、自作品のように愛を持って見ることなんだと、私はこの頃思います。自戒をもって。