史実、定説、フィクション

新選組のような歴史時代小説を書くとき、史実、定説をどう扱うかがとても難しいです。これにとらわれすぎると、実録とか研究書のようなものになってしまうので、どれをとり、どれを捨てるかの取捨選択が難しい。
わたしは根幹の部分(新選組の誠、士道、時代性)といったものは押さえますが、あとはできるだけ人間を描きたいので、ある部分は創作の中では書きかえます。
逆に言えば、史実通り、定説通りなら研究書の方が読み応えがありますし、同じものを私が書く意味はないです。というか、史実だけでは小説は書けません。ひとりの人間の人生は史実に残っていないことが大半だからです。
わたしなりの世界観、主人公の魅力の演出、時代の捉え方をしてこそ、作品と呼べると思うからです。
たとえば『花天新選組』では、ある隊士に死に花を咲かせてあげたいので、史実通りの死に方はさせませんでした。
あるいは、新選組幹部Nは甲州の闘いのあと、近藤と袂を分かってすぐ、靖兵隊を組織し会津方面へ転戦したというのが定説です(N自身が顛末記でそう書いています。ただし、この顛末記は年月を経て書かれたもので、中には史実と食い違うこともあるようです)が、私の作品では、上野で散ったとされる同志Hと共に、いったんは上野へ向かったのではないかという動きに変えています。(もし続編を書くとすれば、上野で戦うことはとどまり、靖兵隊として宇都宮や会津へ転戦する彼が登場するでしょうが)
むろん、悪役となった人物も、史実、証言、伝わる性格などを押さえつつ、創作を加えています。だからこそ、物語は面白くなります。証明できる史実だけでは創作の物語は成り立たないのです。
たとえば、史実を重んじるあまり、敵対する双方の主張をすべて同等の分量で書いていたのでは、物語は成り立ちません。物語には主人公という者がいるのですから。また、史実の多くは、勝てば官軍、勝者の都合の良いように書きかえられている可能性も大きいのですから。創作であるかぎり、そこは、書き手の時代をつかむ力や、勘や想像力がとても大切だといえるのかも。
史実を良いあんばいに押さえつつ、最後にみなを「あっ」といわせた浅田次郎さんの『憑神』は嘘だとわかっていても感動します。
新選組小説の名著、子母澤寛さんの『新選組始末記』も、わが心の師匠、司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』も、史実を押さえつつもやはり創作です。研究分野、ノンフィクションと、小説とは、もともとまったく違うものなのですからむろんそれでいいのです。
結束信二さんの名作新選組ドラマも、結束さんなりのフィクションが散りばめられているのですが、そのフィクション部分こそが、幕末の新選組を、さらに見事に際出させていて素晴らしいです。NHKの「新選組!」も史実にこだわらずおおらかに時代をつかんでいて大変面白かったです。
創作とは、史実の助けを借りながら、史実以上の真実を描き出せる可能性があるものなのかもしれません。
そういう作品に一歩でも近づける作品を書きたいです。
歴史時代小説というのは、敬愛する過去の人間に対する鎮魂歌でもあると思うのです。その人物がどう生きたかったか、どう死にたかったか、どう愛したかったか、実際にどうしたかだけでなく、思い残したその魂を汲み取って、物語を立ち上げてゆくものだとも思います。戦士へのレクイエム。わたしの書きたいのはそういうものです。
まあ、理想はともかく、それができているかどうかが問題なんですけどね。