原点へ帰ろう

人間が長く人生を生きれば、ふと、思うことがあります。
「あれ? わたしはなぜここに立っているのか?」と。これは、どんな職業のひとでも同じではないでしょうか。
私は思いも寄らない人生の転換に出会って、どん底の暮らしをしました。具体的にはここには書けないけれど、百万円前後の年収で扶養家族が二人ありました。その最中、一年半ほどは、歩くだけで激痛がはしる身体を抱えていました。まさにどん底。よくぞ生きていたと、振り返っても思います。
孤独と赤貧(いや、根っからおめでたいので、自分では清貧だと思ってましたが)、それらとの闘いの日々。けれど、その間、支えてくれた人がひとりだけありました。男性ですが、夫でも恋人でもありません、素敵な奥さんのいらっしゃる友人です。その彼のおかげで、わたしは死なずにすんだのかもしれないと、今でも感謝しています。もし、彼やご家庭に何かあったら、できることは何でもしようと、今は思っています。あれから十数年、ようやく人間らしい暮らしができるようになりましたが、そういう今、「あれ?」と立ち止まることがあります。今、この瞬間もそう。
「あれ? わたしはなぜここに立っているのだろう?」と、思うのです。
なぜ作家になったのか、なぜ一冊の本を書かねばならなかったのか、なぜ追われるように書き続けているのか、なぜひとをこんなふうに愛してしまうのか、やせがまんをしすぎるのはなぜなのか、なぜなぜなぜはいっぱいあります。でもそれらは、すべて原点に答があるような気がしています。
原点、少女だった時に、私の中に培われた人生観、死生観といったものに、すべての答があるような気がするのです。
少女だった頃、私に強い影響をあたえたものは、結束信二さんの脚本による「新選組」シリーズ、「用心棒」シリーズでした。ご存じの方も多いでしょうが、結束さんのその頃の脚本といえば、正直いって、文句なしのハッピーエンドは一作もありません。人の運命の理不尽さ、優しさ、切なさに、毎回、少女の私は涙しました。ドラマはいつも、深い傷や痛みを抱えながら、それでも振り返ろうとせず、前へ歩み出す主人公の後ろ姿が印象的でした。まだ幼かった私は、この時学んだのです。人生は切ないものなのだと。幸せはめったに手に入らないものなのだと。だとしても、人は強く生きるのだと。
中高生の頃は、以前も書きましたが、山本周五郎さんの小説に出会い、哀歓の中のささやかな、けれども深い幸せを知ることができました。
ましてや、この頃、私は路地裏のもらわれっ子でした。私の環境そのものが、結束さんの描き出す世界でもあり、周五郎さんの描き出す世界でもありました。同時に司馬遼太郎さんの小説にも出会って、歴史を俯瞰して見ることで、立ち上がってくる人間像を教えてもらいました。これで、この三人の大天才に影響されないはずはありません。
私の書くものはすべて、この原点に培われたもののように思います。路地裏の貧しいけれど豊かだった人々の姿、さらに三人の偉大な先駆者の足跡が、私をここまで案内してくれたのだと思います。
私がどん底で踏ん張れたのも、おそらく、あの死生観が無意識にあったからです。人生は辛く切ないものなのだと知っていたから。けれども、人は優しく強く誇りをもって生きられるのだと思いこんでいたから。だからこそ、人をうらみもしなかったし、弱い自分自身に負けもしなかったと思います。今でも、どん底がどんなに辛いものか知っているから、自分以外のひとと接するとき、私なりに、まず、この人を幸せにできる方法は何かなと考えます。人としての愛情のそそぎ方も、私は路地裏の人々と、三人の大天才に学んだ気がするのです。
でも、この方には心は伝わらないなと感じたら、それをさらに頑張るというようなことはしません。人はその人自身が望んだ時にしか変わらないものですから。そっと、距離をおくようにしています。なぜなら、私は書くという仕事があるからです。書くことで、私の心を受け取ってくれるひとは、まだまだ世の中に沢山いて下さるかもしれません。せっかく出会っても、その方には伝わらないなら、それはもう仕方ないことですから。本は心から心へ届けるものです。作家である以上、売れれば嬉しい。でも、それより嬉しいのは、心が伝わったと感じた一瞬です。
ですから、原点へ帰ります。戻るではなくて、帰る。原点は故郷です。もともと、私は土佐生まれの京都育ち。
「ごちゃごちゃいわんでええ。原点へ帰らんかいな。」と、私の中の関西人がいいました。
「なんもかも気にせんでえいわえ。なんちゃあない、なんちゃあない」と私の中の土佐の女がいいました。
(※日記の一部を手違いで消してしまいました。すみません。)
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