坂本龍馬の愛した京都


昨日は幕末の取材で、京すずめ学校さんの講座「坂本龍馬の愛した京都」へ行ってきました。
〆切を複数抱えているのですが、取材は機会がある時に行っておかねばなりません。
結果としては、ほんとに行って良かったです。書籍の資料ではわからない幕末京都のいろいろを講師の京都龍馬会理事長、赤尾博章さんにたくさん教えて頂きました。
そうそう、シノビリカさんにお目にかかりました。ほんとに、シノビリカさんは京すずめの学校の優等生さんですね。
講演の内容はまだ公開できないものも含んでいますので、ここでは書けませんが、幕末遺跡を少しご紹介します。
 現代の龍馬のような赤尾さんです。
 手前が佐久間象山遭難の地碑。
三条小橋にある碑は遭難現場ではありません。そこから北へ一丁。ここが遭難の地。
美しい白馬に西洋の鞍をのせ、威風堂々の象山さんを斬ったのは河上彦斎だといわれていますが、実は複数犯だったそうです。
最初に襲ったのが二名の暴漢、馬上奔走で逃げた木屋町御池でさらに三名に斬りつけられ、なおも五、六人に襲われて殺害されたそうです。
斬傷は十三か所におよび、多数でめった斬りです。ひどすぎます。私はこの暴漢どもを志士と呼びたくありません。
 酢屋。
龍馬が居候をしていた材木問屋です。写真上、出窓あたりが龍馬の部屋だったようです。
 高瀬川一の舟入
高瀬川は、幕末期の水運を担っていました。舟入というのは、舟が方向を変えたり、荷積み荷降ろしをする人造の湊です。
奥に見えるのが舟入
 古高俊太郎の寓居跡。 
幕末池田屋事変のきっかけをつくった古高俊太郎の寓居跡といわれている「しる幸」の石碑。
なんですが、実はこの古高俊太郎、「枡屋」という薪商の店を隠れ蓑にしていました。
風の強い日に町や御所に火を放ち、中川宮、松平容保などを殺し、天皇を長州へさらう計画を立て、武器弾薬をごっそりため込んでいました。
それが見つかって、池田屋事変になるのですが、その枡屋の敷地は、ドラマで見るような小さなものではなかったそうです。
 はい。ここも升屋の敷地でした。
向こうのラーメン屋さんぐらいまで敷地内だったよう。
しる幸さんは写真の切れた部分、向かって右に路地があってその奥ですから、敷地は右にも奥にもさらに広がります。
さすが、武器弾薬を隠しただけはある大店でした。
 本間精一郎遭難の地碑。
土佐の武市瑞山(半平太)や薩摩の人たちに嫌われたがために暗殺されてしまった志士。文武に通じ弁舌もさわやかだったとか。
本間さんを斬ったのは、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵などといわれていますが、これも多数で待ち伏せして切り刻み、四条河原に首をさらしました。
思想家吉田東洋の暗殺をはじめ、これら数多くの暗殺をかげながら指揮したといわれている武市瑞山は、武士としての気概に満ちた立派な人物だったそうです。
当時の闇討ち、暗殺は武士道に恥じなかったということなのでしょうか。討幕派も佐幕派もこの時代、度々暗殺をおこなっています。
ただ、瑞山は、さんざんに刺客として利用した岡田以蔵に対して、それはひどい仕打ちをしているところが、作家的に見ると、龍馬のように爽やかではありません。
 龍馬と中岡慎太郎の遭難の地、近江屋あたり。
地碑が建っているのが近江屋跡といわれていますが、本当の近江屋跡はその南隣だそうです。ちょうど車が通っている処です。
そこの地権者さんは、事件が血にまみれたものであることを嫌がられ地碑を建てるのを拒否されました。それで、お隣に建てることになったとか。
みなさま、遭難の地への合掌はお隣ですよ。
 龍馬のお墓。
隣は中岡さんのお墓です。
お墓は講座のフィールドワークには入ってなかったのですが、この機会に、お墓参りをしてきました。
 龍馬のお墓から見える景色。
この御霊護国神社には、三百八十六柱の幕末志士の墓があります。
有名どころは、木戸孝允こと桂小五郎、奥さんの幾松、高杉晋作久坂玄瑞大村益次郎吉村寅太郎梅田雲浜宮部鼎蔵横井小楠などなど。
ほかに、暗殺者の河上彦斎池田屋で有名になった古高俊太郎、さらに天誅組の墓もずらりと。
龍馬の墓の左隣には、龍馬のボディガードで、近江屋で最初に斬り殺された(後ろから!)藤吉さんのお墓もあります。
時代をしたたかに生き抜いた人、翻弄された人、みんなが肩を並べて、しずかに京の町を見下ろしていらっしゃいました。
龍馬の血を吸った掛け軸の記事はここ→http://d.hatena.ne.jp/rieko-k/20120513