人間はどうしたって嫉妬してしまう?

【磐座の緑】
嫉妬には、「となりの芝生は青く見える」的な嫉妬もあれば、運命の賽の目が幸運か不運かの分かれ道をたどってしまった結果の嫉妬もあると思います。
嫉妬の感情はめばえても、それを飼い慣らし嫉妬にとらわれない人もいれば、嫉妬の炎をメラメラ燃やし続ける人もいるでしょうが、ともかく、まったく嫉妬することはないという人間はいないのじゃないかと思うのです。
でも、このところ思うのは、嫉妬にはいいのと、悪いのとあるなあ〜ってことです。
たとえば、作家の世界なんて、一つの会社の中と変わらず、嫉妬のうずまいている世界です。
デビューする前は華々しくデビューした人を嫉妬し、デビューしてからはどんどん本が出る人を嫉妬し、本が順調に出るようになれば自分より評価される人、売れてる人を嫉妬し、やがて評価され本が売れても、さらに大きな世界で活躍している人を嫉妬し……と、このままでは際限ない嫉妬地獄の中で、短い人生は終わりを迎えてしまいます。
さらにもし、その嫉妬がマイナス行動を生み出してしまっているとしたら、嫉妬は悪魔みたいに人間の心を食い荒らしていくのではないでしょうか。
作家の場合、もしライバルの一人を「大した力もないのに評価されてむかつく」と思っているとします。とすると、その気持ちの処理をしなければ嫉妬で心が真っ黒に焦げ付いてしまいますから、ことあるごとに、そのライバルの足を引っ張る言動をしてしまうのではないでしょうか。
ライバルの人格について悪口をいう、ライバルの本をこきおろすとか(面と向かっていえない場合でも、クリック一つだけでやれる意地悪、匿名でやれる意地悪がネット上だといろいろありますね)。
いえ、作家でなくたって、ともかく成功してるやつがむかつくので、ことあるごとに誰かを攻撃してストレス発散する人もいるのかもしれません。
あるいは針の穴のような小さなことを、自分の中で象の牙ほどにも拡大して、怨みの感情をつのらせるということもあるかもしれません。
それらは、どれも、嫉妬がめばえた瞬間の最初の一歩を踏み出し間違えてしまったからではないでしょうか。
そんなことを思うのは、私自身もまた嫉妬の感情というものを、いつもなだめながら生きているからです。
嫉妬の最初は「うらやましい」というごく自然な感情です。ここでの一歩さえ間違わなければ、嫉妬のために人生を棒に振ることはないと、私は思っています。
「うらやましい」という気持ちは、人生の底力です。いいようにも、悪いようにも、人生を動かしてしまいます。
「うらやましい」からの最初の一歩をどこへ踏み出すか。二つの方向を書いてみます。
★「うらやましい」→「大した力もないのに、なんであいつだけが…と気持ちがすさむ」→「こっそり、悪口をいったり、隠れて足を引っ張る行動をする」→「意地悪成功! スキッとしたが、自分自身は変わらないので、意地悪をエスカレートさせるしか、自分を癒す方法がみつからない」→「最初の目標を沈没させた! やった〜 達成感! しかし…見まわせば、うらやましい人間は世の中に一杯いる」→「ことあるごとに、誰かの欠点を探すのが得意になる」
★「うらやましい」→「その人、その人の仕事の素晴らしさをさがす」→「ここが素晴らしいと思ったら、こころよくその人を讃える」→「1,自分の目指す道とその人が重なるなら、その人を目標に頑張る。2,自らの目指す道と違うなら、自分は何ができるかを考えて違う道を目指す」→「1,2のどちらを選んでも、嫉妬は自分にとっても他人に対してもマイナスになっていないから、心は晴れやか」
たぶん、このどちらかを繰り返していくのが人生だと思うのです。
大切なことは、他人に対する道徳なんかではなく、自分の心が誰に向かっても後ろめたくなくて晴れやかだということです。自分を大切にするって、そういうことだと、私は思うのですが、どうでしょうか?
 【うちのチビちゃん】
ついでにいえば、私は人生前半は自慢できるほどの艱難辛苦がありました。波瀾万丈、人生泣き笑いそのものです。これはドラマになるなあと思うぐらいです。
実際、拙作『風のラヴソング』『あした、出会った少年』『竜神七子の冒険』などは、フィクションを織り交ぜつつ、実際あったことなどをモデルにした泣き笑い家族の物語なのです。でも、それが、今の作家としての人生の底力になっていると思います。その底力があるからこそ、私の作家稼業は成り立っているのです。作家になって今あるのが幸運というなら、七転び八起きの結果といえるでしょう。ですから、私からは恵まれた幸運な人たちに見える各界の人々にも、隠されたご苦労があるはずです。輝いたところばかり見て、嫉妬するのはお門違い。互いに苦労した者同士、讃え合う気持ちでいれば、嫉妬は人生のカンフル剤になるような気がします。