総司忌のご報告2

rieko-k2010-06-22

第36回総司忌は、いろいろ心配ごともありましたが、墓参も記念講演も、300人以上(いや、実は400人を超えていたそうです)もの方が集まられたということです。
今年は総司さんのお墓の写真は撮っておりません。これは以前の写真です。
総司さんのお墓は、今年は少しお花が寂しかったです。
でも、はるばる墓参にやって来られた善男善女の熱い思いと愛に、きっと総司さんは喜んでいらしたと思います。
私は「今年も参りました。これからも新選組を書かせて頂きます。喜んで頂けるよう良い仕事を致します。どうか見守って下さいまし」と、お祈りさせて頂きました。
その後、講演会場へ入りますと、あまりの人の多さに絶句!
席は足りず、赤じゅうたんの桟敷席も満杯で、椅子席はどんどん前に移動させられて、どんな感じかというと、講師台の真横までぎっしり椅子席がある状態で、つまり、私からは正面の桟敷席しか見えないような、ぐるりと取り囲まれたみたいなようすでした。それでも、立ち見の人が入り切れず、廊下まで人が立っている状態なので、ほんとに申し訳なかったです。
これまで、文学系講演ならそれなりにこなしてはいるのですが、総司忌の講演というので緊張していました。でも、これを見て、一瞬「うわ〜」と思って、逃げ出したくなりました。直後、度胸がすわって、居直りました。「これは、総司さんが引き寄せられたお客さま。私は精いっぱい愛してる新選組のことを話せばいいんだ…」と思って。
そして、90分。うっかり、水を演台に持っていくのを忘れて、水一杯飲まず話しました。
実際は用意していた原稿の多くを省いてお話ししました。だって、一つの章で充分1、2時間は話せるエピソードがあるのですが、この日はできるだけ新選組の話をしたかったので。
ここに、演題と章立てだけ書きますと…
演題 「『恋する新選組』を書きおえて。新選組追っかけ泣き笑い作家人生」
1、わたしが作家になったわけ
2、ゼロからの出発
3、人生の枝折り
4、新選組どっぷり少女時代
5、馬鹿げた行為は、たまに運命をきりひらく
6、新選組に会いに行く
7、恋する新選組
8、それは愛
というような内容でしたが、1から5まではそうとうすっ飛ばしたにかかわらず(文学系講演なら、この部分はもっとエピソードを話します)、それでも、7,8あたりになると、もう時間がなくなって、自分の本についてはくわしく話すこともなく、お世話になった先生方のご著書の紹介だけはやらねばっとそれだけは必死にやり、あとは超特急でお話を済ませました。
なので、もっとあの部分をくわしく聞きたかったとか思われた方がおいでになったかもしれません。
個人的には、ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、反省はありますが、これまでも講演をして満足だったことはないので、まあ、致し方ないかと。
休日なのに駆けつけて下さり、『恋する新選組』シリーズを販売して下さった編集Sさんが持ってきて下さった拙著もほとんど買って頂き、ほんとに、ほっとしています。
恋する新選組』のことをあまり話さなかったし、文学系の講演ではないので、大量に売れ残ったら、Sさんに申し訳ないなあと気になっていましたので。でも、子どもの本にもかかわらず、沢山の方が買って下さり、サインに並んで下さり、ほんとうにお一人お一人に感謝しています。ありがとうございました。
【総司忌の会場、講演が終わってからの抽選】
みなさんの楽しそうなお顔がわかるでしょうか? 写真を撮って下さったのはノンさんです。
他にも写真を撮って送って下さったノンさん、こちらのまですさん、ありがとうございました。
遠路はるばる駆けつけて下さいましたみなさま、一瞬すれ違っただけでお話もできませんでしたが、気持ちは感謝で一杯です。ほんとに、ありがとうございました。
講演内容はくわしくご紹介はできませんが(個人情報満載ですので>汗)、ここに新選組を書くにあたって、お世話になった先生方をご紹介した一文だけご掲載しておきますね。
以下、講演でご紹介した先生方についての一文です。
                                    【庭の紫陽花↘】 
今日、沖田総司さんのお墓をご覧になって、みなさまはどう感じられたでしょうか。
私が初めてお参りした時に感じたのは、沖田さんのお墓は哀しいくらい可愛いお墓だということでした。まるで墓そのものが人格を持っているようなお墓だと思いました。小さいという意味だけではなく。
少女の頃、お墓にお参りしたくて、でもそれは叶わず、もし、お墓に行けて、手を合わせたら涙が出るのではないかと、その頃は思っていました。
でも、その日、あふれ出たのは涙ではなく、幼い子どもを見るような愛しさでした。
ああ、まだいらっしゃる。総司さんはまだここにいらっしゃると思いました。少なくとも、総司さんの澄み切った気のようなものは、まだそこに漂っているようでした。そうなのです。澄んでいたのです、そこは、とても……。
「総司さん。やっと来ました」と心の中で声をかけました。
「あなたを書かせて頂きます。あなたが生きて戦った意味を、その誠を、私なりに一生懸命書かせて頂きます。いい作品にして、新選組の皆さんに喜んでもらえるよう頑張ります」そんなことを誓ったと思います。
                                 【いつも総司忌の頃に咲く遠花火↘】
 その時、歴史研究家の釣洋一先生がいらしていて、教えてくださいました。
 沖田さんの墓の裏に、植木屋平五郎さんのお血筋のお墓があることを。ご存じですよね、植木屋平五郎さんは沖田さんが江戸で療養していた時、世話をしていた人です。植木屋の離れで、沖田さんは亡くなったとされていますが、異説はありました。でも、背中合わせにあるお墓を見たとき、むしろ、これを偶然だと思うのは無理があると思いました。やはり、総司さんは平五郎さんの離れで亡くなったのだと思いました。あの時の感動は忘れません。
 釣先生は、それだけでなく、新選組の足跡を同じ季節に歩かれたり、戸籍からさかのぼって新しい事実を発掘したりという貴重なご本が数々あります。
中でも『土方歳三波濤録』は、新選組が歩いた道、戦った道を、同じ季節同じ日数で、自分の足で歩き抜いた釣先生の愛と誠あふれる実録です。
その丹念な調査踏査の結果、伝わってくる生きた皮膚感覚が素晴らしいです。新選組研究は次々新しい資料発見がありますが、彼らと共に歩み、彼らの魂に寄り添ったこの一冊は、時空を超えて貴重な一冊だと思います。
恋する新選組』を書いた時、釣先生のそれらのご著書がとても力になりました。たとえば、江戸で召集された浪士隊が京へ上る道で、芹沢鴨さんの宿を近藤さんが取り損ねてしまったことがあり、芹沢さんが怒って大焚き火をしたというあの事件です。同じ季節にその地を歩かれた釣先生は、当時のあの夜は凍えるように寒かったということを、ご自身の体で体験されるのです。凍えるように寒かったなら、芹沢さんの大焚き火の意味もだいぶ違ってきます。
自分の宿所がなくて、凍えるように寒いとすれば、大焚き火も、ただの意地悪だけとは思えません。そうなら、芹沢さんのキャラクターも変わってきます。
 わたしは釣先生のおかげで、鮮やかにその夜のイメージを思い浮かべることができたのです。 
新選組を書くのに、お世話になったのは釣先生だけでなく、山村竜也先生(NHK大河「新選組!」「龍馬伝」の時代考証をされている作家さんです)、伊東成郎先生、菊池明先生など、いずれも新選組関係の著書で第一線の著名な作家さんたちに大変お世話になりました。
まず、『花天新選組』を書くとき、悪役を誰にするか悩みました。新選組内部の誰かがいいのですが、これ!という面白い存在が見つかりません。
それで、買いためた資料をかたっぱしから読みました。すると、ありました! 山村先生の『新選組証言録』という本です。
ここに、ぴったりの人物がいました。新選組から二度も脱退したという安部十郎さんです。ご子孫にはほんとに申し訳ありませんが、この安部さんが私のイメージの悪役にぴったりでした。
なにせ「近藤はほとんど山賊の親分だ」とか、「斎藤一は金を持ち逃げした女にのろいヤツだ」とか、「沖田は国家朝廷があることさえ知らない残酷な人間だ」などと言い残されていて、戊辰戦争の前に、病床の沖田さんを襲撃しようとして未遂に終わると、次は銃で近藤さんを襲撃するという、これ以上はない新選組の敵役でした。(ご子孫さま、ごめんなさい)
そうして書いた『花天新選組』を読んで下さった山村先生から「越水さん、うまいなあ。ことに最後が良かった。なにより清々しい」といって頂いた時には、生きてて良かったと思いました。
そして、『恋する新選組』では、伊東成郎先生に沢山お世話になりました。でも、なんといっても『土方歳三の日記』にくわしく書かれている、会津藩主の容保公に新選組が披露したという、上覧試合(稽古試合)の記録です。何番目に、だれとだれが戦ったかということを、伊東先生に教えて頂けなかったら、あのシーンはあんなに楽しんで書くことができませんでした。
これまでの新選組の小説は、このシーンは作家の想像だけで書かれてきたものがほとんどです。ところが、私は伊東先生のおかげで、すべての試合の対戦相手を知ることができました。
まず、トップバッターが世に名高い美丈夫の土方、美男の藤堂という、なんとも絵になる試合ではじまり、永倉と斎藤、沖田と山南というなんともかんとも豪華キャストの取り組みになっていくさまは、まるで、映画のような展開です。『恋する新選組』でも、読者がとても喜んでくれるところです。
そして、菊池明先生の『新選組全史』と『京都守護職日誌』は、いつも座右においていました。わからないことがあれば、辞書のようにページをめくると、必ず的確な答えを教えて頂きました。
たとえば、池田屋へ討ち入った新選組のメンバーの名をいえる人はいても、では、屯所に残っていた人は誰と誰か、名前をいえる人はほとんどないでしょう。『新選組全史』と『京都守護職日誌』さえあれば、そんなこともすぐ答が出るのです。
それら、先生方のご本から得た歴史の証言のすき間を、リアリティのある想像で埋めていくのが、創作小説の仕事です。
その創作部分が面白くなければ、小説を書く資格はありません。私は新選組のみんなが思い残した魂の熱や、ほとばしる愛を書きたいと思いました。
そして、読む人の夢を叶えてあげたいと思いました。
作家の夢は、読者の夢でないといけません。両方の夢が重なり合うから、読書は楽しいのです。
黒龍の柩』を書かれた作家の北方謙三さんは、「小説は作家の願望である」とおっしゃっていました。願望だからこそ、そこにリアリティが生まれるのだと。
そういう意味でいえば、私の書いた『恋する新選組』は、少女の頃からの私の願望であるのかもしれません。
あの見事な男たちの世界を、この目でもっとくっきりと見てみたい。あの時代を体験してみたい。あの人に、この人に、会ってみたい。心を通わしてみたい……そんな願望が私に小説を書かせたような気がします。

と、今日はここまで。総司忌のご報告、2回でも書ききれないので、第3回に続きます。
土方歳三波濤録 土方歳三の日記 新選組全史〈上〉 京都守護職日誌〈第5巻〉慶応三年九月~慶応三年十二月