生の苦しみ、生の哀しみ


今日は、女友達のFちゃんからの電話で、しばし、仕事の手をとめてしまいました。
というのは、私達がかつてOLだった時代に、親しかった上司(男性)Oさんが最近亡くなってしまったことで、そのOさんの話がしたくて、Fちゃんは時々電話をしてくるのでした。
Oさんは、元気だった頃、Fちゃんに「彼は元気か?」ときかれたそうです。
でも、Fちゃんは半生をかけて愛したその彼から、逃げるように別れていたのです。それで、「別れた」と答えたそうです。
そのとき、Oさんは「そうか、でも、生きてはるんやったらええやん」と。奥さんと死別してからずっと、Oさんは「もう、僕はいつ死んでもええんや」というのが口癖だったのです。
Fちゃんはそういわれて、つい、「そんなん、もう会えへんのやったら、生別も死別も一緒やわ」といってしまったのです。
そのことを、Fちゃんは悔いていて、「喧嘩友達みたいやったOさんが急に死んでしまわはって、生別と死別の違いがわかった」というのです。
自分の意思で会わない、あるいは相手の意思で会えない、どっちにしても会わないでいることと、もう決して会えない死別、相手の幸せを祈ることもできない死別の喪失感を、あれからずっと、Fちゃんは強く感じ続けてきたのでした。
私はFちゃんにいいました。
「最愛の人と、自分の決意あるいは相手の意思で会えないのは、七転八倒しようとも、思い余って自殺してしまったとしても、それは、その苦しみは、『生の苦しみ』なんよ。でも、死別はね、『生の哀しみ』なん。自分の生にひたひたと染み入ってくるというか、激しさがない分、よけい深くしずかに、逃げ場のない場所へ追い込まれるのが『生の哀しみ』。そやから、『生の苦しみ』『生の哀しみ』は、どっちが苦しいとかやなくて、種類が違うって思う」
Fちゃんは、「りっちゃん、ほんまにそうや。私、今頃わかった。でも、りっちゃんは、なんでそんなことがわかるん?」と聞きました。
「一度、心が死んでしまったことがあるいからかなあ……自分でも、ようわからんけど」と、私はこたえました。
「そういえば、りっちゃんは、出家したいっていってたことあったね」と、Fちゃん。
「うん。あの時は、親しい住職さんに相談したぐらい本気やった。ぼろぼろやったから。子供たちがいてくれたから、なんとか思い止まることができたって、今は思う。あれはね、『生の苦しみ』やったから、激しかったん。そのトラウマはまだあるけどね。けど、親しい人を亡くした『生の哀しみ』は歳ごとに自分の中に取り込まれていくみたいで、どんどん深くなる…」
「そうか、『生の苦しみ』やったんやね、私は……」と、女の人生のいい時期を、すべて妻子ある人との日々に捧げたFちゃんが、しみじみつぶやきました。
「うん、アンバランスな関係におかれている女は、日々疲弊してしまうんよ。たとえ、どんなに愛していても。最愛の人のもう一つの生活がいつも無意識下にあって、たぶんそっちが相手にとって本物なんだってと感じているのに、それを見ないように努力しないと付き合えへんからね。そやからね、Fちゃんは、もう一回、誰かを愛して、疲弊しない関係で幸せになって。そうでないと、せっかくの女の人生がもったいないよ」
 そんなこといってると、突然、Fちゃんが、
「りっちゃん、そういう本を書いて! 小説でも、そうでなくてもええから。そういうの、読みたい。読みたい人一杯いると思う。りっちゃんのそういう言葉、散りばめて書いて!」と。
そうか、書こうかな…と、ふと思った。
誰かの役に立つなら……と。

そんなこんなもありながら、K社アンソロジーのヴァンパイア短編は、昨夜入稿。
珍しく、〆切より十数日早かったから、担当さんが喜んで下さいました。
今日は『忍剣花百姫伝(1)めざめよ鬼神の剣』のゲラが届きました。校正をはじめています。