十代の恋

十代の頃、私は当時先鋭的だったO先生の小劇団の芝居の代役で、劇団の稽古と撮影所の仕事を行ったり来たりしていました。主役だった女優さんが撮影所で暴力団関係の男性とかかわりができてしまい、京都にいられなくなって、故郷へ逃げ帰ってしまったというとんでもない事件が起こって、主役がぽっかりいなくなってしまったのです。でも、公演の予定は決まっているし会場もおさえてあるし、チラシもまいているし取りやめることはできないというので、劇団外部だったにかかわらず、O先生の教え子だった私が抜擢されてしまったのです。
とはいっても、当時の私は映画やドラマの脇役しかやったことはなく、ましてや舞台はほとんど素人で、もともとは女優よりシナリオライター志望の少女(十代ですから)だったのです。そんな私にはその後の稽古の怖かったこと怖かったこと。O先生の罵倒、共演者の罵倒は毎日飛んできますし、時には怒ったO先生のシナリオも飛んできました。共演者が怒ったのは、私が撮影所の仕事を休んでまでは稽古に来ないことでした。主役に抜擢されて、なぜこの芝居だけに集中できないのかと、それはそれはののしられました。でも、私は撮影所の仕事で生活をしていましたし、劇団の芝居はボランティアです。所属タレント事務所の仕事はどうしても断れませんでした。ですから、どんなにののしられても撮影所の仕事へ行きました。でも、撮影所へ行っていたのは仕事が断れないからだけではありませんでした。劇団の稽古は地獄のような苦しみでしたが、撮影所の仕事はのんびり平和だったからです。つまり、私は舞台女優に向いた人間ではなかったのだと思います。
結果、公演は私以外は素晴らしいものでした。先鋭的芸術的な舞台演出だったなあと、今でも思います。あくまでも私以外のことですけれど。
私はきりきり洗練された新劇のような仕事はとことん苦手なのでした。つまり、私は時代劇のような形式美が好きだったのです。
当時にも子供向きかぶりものヒーローのチャンバラ番組があって、その主役に抜擢された少年と出会ったのはその頃です。
Tくんは日本人ばなれして彫りが深く、眉目秀麗のそれはそれは美少年でした。ちょうど私より一つ年下でした。有名な男優さんのお弟子さんだったTくんは、その頃、芝居もドラマも初めて、チャンバラも初めてでした。その緊張からか、年頃も近い私にいろいろ話しかけてくることがありました。そのうち仲良くなって、彼は車で送ってくれたりするようになりました。気がつかないうちに、私たちは付き合うような形になっていたのです。
「きれいな女優さんはごろごろいるのに、わたしのどこがいいの?」と私は聞きました。「そんなことない。りえちゃんもきれいだよ」といってほしいのは娘心です。
ところが、彼は「ほっとするから」とこたえました。
当然です。綺麗なのは彼の方でしたから。しかし、愛想のないやつです。とまれ、美少年というのは、お世辞もいえない不器用者であることが多いのです。だって、お世辞なんぞ言われたこともないし、言う必要もない人生を歩んできたのが、本物の美少年というやつですから。
「じゃ、りえちゃんはぼくのどこがいいの?」と彼は聞きました。
「ほっとするから」と私はこたえてやりました。実際はどう答えていいのかわからなかったのです。私は綺麗な彼を見ているのは好きでした。でも、彼を好きなのかどうかは、よくわからなかったのです。(見てるのが好きとはいえんではないか)
私たちは十八と十九だったのに、とても正直でとてもうぶだったのです。
紆余曲折があって、私たちのままごとのようなお付き合いは終わりました。紆余曲折の一度目は彼が約束を破り(この時だけでなく、彼は先生である男優さんの用事でよく約束を破りました。でも、俳優にとっては時間厳守は仕事のみ。仕事の時間延長は日常茶飯事なので私事は二の次が当然の世界だったのです)、二度目は私が彼を拒否したのです。三度目は彼がやっぱりもう一度付き合いたいといい、私はもう無理とこたえて、私たちはプラトニックのまま別れました。
彼のデビューもぽしゃりました。ルックスは素晴らしいのに、彼には演技力が足りなかったのです。
あれから、なんと、恐ろしいばかりの長い月日が流れたことでしょう。
今から思えば、私は彼に同志のような友情のようなものを感じていたのだなあと思います。お互いにとって地獄のようなレッスンの日々が身近にありましたから。きっと心から「ほっとしていた」のです、私たちは。今でも思い出すと、撮影所で会うとき、私たちはいつも笑顔でした。
愛とか恋とかでなかったにしても、大切なひとときを私たちは生きていたのかもしれません。